もうずいぶん昔のことですが、朝、勤めに出ようしていると、ちょうどバキューム・カーが来て、トイレの汲み取りを始めました。そしたら、その頃は幼稚園に通っていた長男が、「クサイ、クサイ」と大声で言いながら、部屋の中を飛び回りはじめたのです。マズイと思いました。とっさに、「ふざけるな、誰が、おめえのうんちを始末してくれるだ !」、そう一喝して、一発、平手をくれてしまいました。子どもは泣きだし、ワイフがとんで来て、「子どもがクサイと思うのは、あたりまえでしょう」と責めました。
これも昔のことになりますが、かつて、女子高生たちの、《女性と職業》というテーマの討論会に出席させてもらったことがあります。
その時、彼女たちが、長い時間をかけて出した結論は、《 職業というものは、それぞれの個性を伸ばすものである。女性も、自分の個性を伸ばすために職業につくべきである。しかし、子どもが小さいうちは、仕事をやめて育児に専念すべきだ 》という、至極もっともなものでした。
会の終わりに、コメントを求められます。自分は、この結論の全てに、「意地悪く」反論しました。
みんなの出した職業観も母親論も、まったく間違っていると思う。職業によって、自分の個性を伸ばすという、誰もがよしとするような考え方は、人を傷つけることにはならないか ? 自分が、個性を伸ばすと思える職業についた時、おそらく、その人は、個性を伸ばしているのではないと思われる職業についている人に対して、優越感を持つに違いない。そして、その結果、職業の「貴賤」観を生じさせ、それが人間を差別することにもつながっていくのではないか。
考えても見ろ、個性を伸ばすことができる仕事についている人なんて、十人に一人もいない。オレの親父は、体の芯も凍るような寒さの中で、一日中道路に突っ立って、交通整理の旗振りをしていたが、それ、個性を伸ばしていると言えるか。
また、子どもの小さいうちは、仕事をやめて育児に専念すべきだということも、どうしてそんな大胆なことが言えるのだろう ? 母親である自分が育てるよりも、保育園の先生に預けて育ててもらう方がよっぽどいいかも知れないじゃないか。子育てできる、いい母親になることは、たいへんなことだと思うよ。
職業は、みんなで一緒に生きていくために必要なことを分担するものです。多くの人は、個性を伸ばすなんてことからは完全にシャットアウトされながら、しかし、みんなが一緒によく暮らしていくために、黙々と自分の分担を果たしています。
そして、「心ならず」就いた仕事であったとしても、それを続けていくうちに、自分のしていることの「大切さ」「意味」に気づいていくのです。その仕事に、「充実感」や「生きがい・やりがい」を感じいくのです。そういう人たちこそが、社会を成り立たせている立派な職業人だと、自分は思います。
子どもたちに将来の夢を聞くと、多くの子どもたちが、野球選手やサッカー選手になることだと言います。オリンピックで、いい成績を収めてメダルを獲った選手を、みんな、夢と希望を与えてくれたと称賛します。(サッカーで名を成したある選手は、「プロになってイタリアにいって何十億も稼ぐ。世界一になるんや」、そう思って子どもの頃から練習に励んだと言っていました)
ハーバード大学のマイケル・サンデル先生の白熱教室は、「ロナウド選手の年俸は高いか」というテーマで議論していましたが、たとえば、「どうしても必要な」介護福祉施設等で介護する人達の所得と、「どうしても必要とは思われない」サッカーの選手であるロナウドのそれを比べたとき、誰だって絶句せざるをえないでしょう。
このような社会はなんか、おかしいのではないでしょうか。現代社会の価値観には、どうも納得がいきません。
老いの繰り言 6月
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