暑い夏と共に、パラリンピックも終わったが、「障がい」という言葉に出会うたびに、かつて読んだクリス・ムーンの文章を、自分は思い出していたように思う。
クリス・ムーンは、地雷撤去活動中に触雷し、右手・右足を失いながら、地雷犠牲者の支援や地雷撤去支援の基金を募るために、あえて過酷なマラソンを走るというチャリティランをしている社会活動家だ。
彼は、1998年2月7日、長野オリンピックの開会式に、小学生が演じる雪ん子たちに囲まれて最終聖火ランナーとして走った。そして、その縁で、2001年の第三回長野オリンピック記念長野マラソンにも出場(なんと、4時間42分27秒というタイムだった)したが、それに先立って『信濃毎日新聞』(01.4.12)に、「感謝の気持ちでナガノを走る」という一文を寄せた。
その中で、オリンピックで走った喜びを述べた後、クリス・ムーンは次のように書いていた。
重度の障害を持った人を目の前にすると、つい目を背けてしまいがちだ。しかし障害を持っているからといって、物事について考えたり感じるふつうの人間に変わりはない。明らかな違いをあげるとすれば、生きていく上で必要な能力を健常者と同等に持っていないということではないだろうか。ぼくは身体に障害を持ってから、「障害がある」という言葉の意味についていろいろと考えてきた。生きていく上で必要な能力が健常者と同等でないとしたら、それは「障害がある」と言えるのではないかと思う。病気や事故、けが等が原因で身体に障害を持つことがある。さらに、精神的に虐待を受けたり、貧困であったり十分に教育を受けられないといった事も「障害がある」と言えると思う。なぜならこういったことは心の内側に障害をもたらすからだ。
ここを読んだ時の衝撃を、自分は忘れることは出来ない。
彼は、身体的な障がい者と同じように心の障がい者もいると言うのだ。身体的な健常者が、必ずしも障がい者でないとは言えない、と言うのだ。
何の疑問もなく自分は「健常者」だと思い込み、平気で「障がい者」という言葉を使っていた自分は、自分の浅はかさと傲慢を思った。
自分は、心の障がい者ではないと、言いきれるのか?(そして今、加齢とともに、自分は、身体の障害者にもなりつつあるのだ)
「『人間であること』とは、自分の可能性を広げること、自己の限界を打破すること」だとクリス・ムーンは定義するが、自分の障がいに気づくこともなく自分の可能性を伸ばそうともしない点において、自分は、「人間であること」から、遠いのではないか、そう思わされもしたのだ。(おそらく、人は、それが身体的であったとしても精神的であったにしても、みな、自分は障がい者であると、考えた方がいいのかもしれない)
思えば、「健常者」という言葉も「障がい者」という言葉も、なんとイヤな言葉だろう。肉体的にも精神的にもデコボコであることこそが、人間という存在のありのままの姿であり、そういうデコボコを当たり前のこととして認めるところから、「人間である」ということの営みが始まるのだ。
クリス・ムーンの問題提起は、パラリンピックが終わった今も、依然として重い。秋は、日に日に深まっていく。
老いの繰り言 2021/10
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