もう大昔のことですが、NHKの番組に「成人の日」に放映する「青年の主張コンクール」というのがありました。若い人たちが、自分の夢や希望、志す進路などを語るとてもいい番組で、毎年見ていました。最後に、最優秀者とか優秀者を決めて終わるのですが、その人たちが例年、自分の予測とは違い、そのことが、おれはまだNHK的ではないと、ひそかに自負するところにもなっていたのですが、ある年もまた、そのいずれにも該当しない九州の高校生の話が一番心に残りました。
弟が身障者である少年は、早くから障がいのある人とかかわる仕事を自分の一生の道として決めていたが、ある時宮城まり子さんのねむの木学園を撮った映画「ねむの木の詩が聞こえる」を見た。肢体不自由だったり自閉症の子どもたち(大人もいます)が、宮城さんたちとの交流を通してそれぞれの人生を生きていく、それを描いたドキュメントで、まさに感動的、見ている人はみんな涙を流し、ハンカチで目がしらを押えた。
ところが、映画が終わった途端、観客は出口に殺到したというのです。杖をついて歩く人(この映画には、その内容から身体に障がいのある人たちも見に来ていた)、そういう人たちを押しのけ突きからかししながら、猛烈な勢いで人々は、出口に殺到したというのです。
外は、どしゃ降りの雨、タクシーを拾わなければ帰れないほどの雨だった。順番待ちをしていた身障者の一人は、自分の番が来た矢先に、横あいから巧みに割りこんだ中年の婦人にタクシーをとられた。そして、みんなが帰った終わり頃になって、やっとタクシーを拾って帰って行った。
これを目撃したこの高校生は、こう訴えていました。
― 人間はどこで感動するのでしょうか。
― 人間の感動とは何なのでしょうか。
映画を見て感動して泣いたのも、自分たちの真実です。そこには少しの偽りもないでしょう。しかしまた、身障の人たちを押しのけて出口に殺到し、タクシーを奪ったのも、また、自分たちのほんとうの姿です。
自分は、この高校生が声をふるわせながら訴えるのを聞きながら、自らを省みて肺聊をえぐられる思いがしました。「オレもまた、同じだ ! 」
現代社会は、たくさんの感動を自分たちの身の回りにいっぱい用意してくれています。いわば、現代は「感動のるつぼ」です。しかし、日常的な感動の過多は、また必然的に、人間の心の中に、このような二様のつかい分けを、もたらしています。映画に心底感動しながら、しかし、そのことによって生活の無感動は、微動だにしないという構造。ここでは、感動は、人をよりよく生きるために励ますものではなく、一杯のコーヒーにも似て、日常の怠惰を一時的に忘れさせてくれる嗜好品でしかありません。
こういう状況のどこに、自分たちはひっかかりを見つけていくことができるでしょうか。 (2021/9)
(じじの繰り言 2)
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