はじめましてかおりんです。
今回ははぐまつへ寄稿させていただきました。
私はサイト:歴史上の偉人、有名人と子孫の大百科というサイトを運営しているのですが
歴史が大好きです。
はぐまつさんは長野県松本市の子育て情報サイトとお聞きしたので、
長野県にゆかりのある武将「真田幸村」について寄稿させていただきます。
信州 が生んだ名将・真田幸村(さなだ ゆきむら)は、好きな戦国武将ランキングで毎回上位に入る程の人気があります。
幸村の人気の理由は何か、幸村の魅力と略歴についてまとめています。
人気の幸村ですが実情を伝える史料が少ないため、
詳しいことは知られておらず生年すら定かではありません。
今回は「史実」を深堀するのではなく、
「通説」として伝わっていることを記載させていただきます。
真田幸村の略歴
◯幸村幼少期
武田信玄に仕えていた真田昌幸(さなだ まさゆき)の次男として生まれた真田幸村
武田家滅亡により後ろ盾を失った真田家を徳川家康などの敵から守るため、
上杉景勝(うえすぎ かげかつ)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし )の人質となります。
その後、秀吉のもとで初陣とも言われている小田原攻めに参加するなどし、秀吉から1万9000石の知行を拝領し、
父・昌幸とは別の独立した大名として遇されています。
◯豊臣秀吉亡き後
秀吉亡き後は、徳川家康らと石田三成らが対立すると、
父・昌幸と西軍(石田方)に加わり、東軍(徳川方)に加勢した兄・信之と袂を分かつことになります。
どちらが勝利しても真田家が残れるように分かれたとも、
幸村、父・昌幸の妻が西軍武将の娘であり、兄・信之の妻が徳川家康の養女であったことが理由とも言われています。
◯上田城帰還後
そして上田城に帰還した幸村は、父・昌幸の采配のもと、
徳川家本隊を率いる徳川秀忠(とくがわ ひでただ)隊3万8000人をわずが3000人弱の兵で迎え撃ち、徳川隊に大打撃を与えます。
しかし関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、兄・信之らの執り成しで死罪は免れたものの家康によって九度山(くどやま)で軟禁状態に置かれ、これまで行動を共にしてきた父・昌幸も病死してしまいます。
◯関ヶ原から14年後
関ヶ原の戦いから約14年の月日が流れ、このまま老いていくのかと思っていた頃でしょうか。
1614年、徳川家と豊臣家の関係が悪くなり、豊臣家の招きにより嫡男・ 幸昌(ゆきまさ)と共に豊臣家に加勢を決めます。
そして九度山から脱出して、大坂の冬の陣に参戦し、幸村の奮戦ぶりに脅威を感じた家康から寝返りを促されるものの拒否し、
再び大坂夏の陣で徳川軍と相まみえ、長年の宿敵である家康を自害寸前にまで追い詰めます。
しかし、奮戦むなしく討死し、その戦いぶりから「日本一の兵(つわもの)」と評されることとなります。
幸村の魅力・豊臣家の忠義を貫いた
幸村の魅力の一つは、大坂の陣で見せた豊臣家への忠義を貫くところではないでしょうか。
大坂の陣にて豊臣家の敗北は濃厚であると見なされていましたが、豊臣家の恩義に報いるため大坂城に馳せ参じたとする説があります。
(真田の武名を天下に轟かせるためとする説もあります。)
いずれにせよ、親族に書いた手紙に「僕は、もうこの世にはいないものと思っていてください」などと書かれており、
生きては帰れないことを予想するかのような手紙が残っています。
まるで豊臣家の敗北を予想し、死を覚悟して戦っていた様子が垣間見えるようです。
後に幸村の奮戦等により一時休戦になった際、幸村の叔父が派遣され幸村に
「信州一国」を与えるという厚遇で、徳川方に寝返るよう説得したそうですが、
豊臣家に恩があるとしてこれを断ったと伝わっています。
豊臣恩顧の武将が徳川方として参戦する中、負け戦とわかりつつ豊臣家を守る為に命を賭(と)して戦う姿が人気の一因かもしれません。
幸村の魅力・勇猛さと知略を兼ねた名将
大坂の陣は、「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」と二度に渡る戦です。
この戦いにおいて、幸村は豊臣家が集めた武将の中でも最も頼りにされた武将の一人でした。
《大坂冬の陣》
大坂冬の陣では、大坂城に籠って戦うことになり、幸村は「真田丸」と呼ばれる防御設備を築きます。
そして、家康配下の前田利常(まえだ としつね)、井伊直孝(いい なおたか)、
松平忠直(まつだいら ただなお)らの攻撃を一蹴し、見事な籠城戦を展開し、一時休戦へと持ち込みます。
ほかの砦が落ちる中、この「真田丸」だけは唯一、徳川軍の猛攻にも最後まで耐えることができましたが、
一時休戦の時に徳川方に真田丸は取り壊されています。
《大坂夏の陣》
再び大坂城に迫る徳川軍を攻撃するために出陣した幸村は、
状況がとても不利な中、戦場となっていた道明寺(どうみょうじ)に到着し、
片倉重長(かたくら しげなが)率いる伊達軍を撃破し、一時的に徳川軍を退却させ、進軍を食い止めることに成功します。
道明寺の戦いで殿軍(しんがり)を務めた幸村は、
「関東勢百万も候へ、男は1人もいなく候」
(関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな)
と言い放ち退却したと言われており、幸村の勇猛さを印象付ける話として語り継がれています。
そして最後の総攻撃の時が訪れ、幸村は死を覚悟し徳川家康の首のみを目掛けて決死の突撃を行います。
家康本陣に突入し、二度にわたり突撃して精鋭揃いの家康本隊を蹴散らし、
「家康の首を取る寸前」まで追い詰めて家康は死を覚悟したと伝わり、この時家康の人生で二度目となる馬印も倒されています。
しかし、駆けつけた家康の援軍の前に力尽き、壮絶な最期を迎え、
家康を追いつめた勇猛な名将として
「真田日本一の兵(つわもの)」と語り継がれることになります。
幸村の魅力とはこれまで述べたように、
持ち前の知略と勇猛さで「家康の首を取る寸前」まで追い詰め、
また義を重んじ豊臣家と共に滅んだことでより魅力的に見えるのかもしれません。
プロフィール
ライター名:かおりん
3歳児なのに大人のように寝ない元気いっぱいな子のママをしています。
空いた時間で、歴史に関することや地元埼玉県のブログを書いています。
歴史好きで、長野県の真田家ゆかりの地は殆ど観光しています。
サイト:歴史上の偉人、有名人と子孫の大百科
サイト:埼玉県の観光スポット、グルメスポット
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